詩編6編「弱さの中に開かれる祈り」10月2日

この「救いを求める祈り」は、神の怒りに対して激しく、また苦悶しつつ、御恵みを願い求めるものです。この祈りは、主こそ死をもたらす方であると同時に、生命を与える方であることを理解しています。主に一心に向かう思いがその基調となっています。

またこの詩編で「癒し」に関する語彙は、旧約聖書では社会の状態、神学的な状態を隠喩的に表すのに用いられるものであり、ゆえに、この詩は共同体の再生を求める祈りとして用いられるようになっていきます。紀元5世紀までには、この詩は特にレントの時期に捧げられる祈りの一つに数えられていました。(メイズ)   祈りは「わたし」の祈りから始まるかもしれませんが、それがさらに家族や共同体、そして世界のことを祈る広がりが生まれるものですし、その点では「主の祈り」が「我ら」の祈りであるのは御心です。

6節の「死の国」「陰府(よみ)」は死んだ者の行きつく場所であり、ここでは神の救いを知らずに死んでしまうことの虚しさを訴えています。詩人は「そうならないように」救いを祈るのです。また新約聖書から考えれば、主イエスは死んだ後「陰府」に下り、生きる希望が尽きた世界にも、その足跡を残されたこと、「陰府」での宣教がなされたことを覚えます。

7、8節は嘆き疲れ、涙が寝床にあふれ、目は衰え、その心は完全に疲れ切っています。しかし、そのような全敗、絶望、自らの力を失ったところに、つまり、その弱さの中に主の働きがあらわれます。それはパウロが祈って祈っても聞き入れられないような困難と弱さの中で発見したこととつながります。「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。(キリストの)力は(わたしの)弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは、弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして生き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです。」(2コリント12章9~10節)
そしてこの詩人もまた、信頼をもって再び祈るのです。「主はわたしの泣く声を聞き、嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる」ことを信じて。それは決して自分だけで歩み出すことができない一歩であり、まさに主の助けの中で人は新たな一歩を歩みだすことができるのです。

祈ることができないから、苦しみが強いから、教会に行けないと仰る方がおられます。でもそのような時にこそ礼拝が必要なのです。礼拝だけでは誰ともしゃべることはありませんから、ぜひおいでください。また、平日でも教会で心澄ませて祈る時もよいでしょう。主はあなたの祈りを待っています。

なお、冒頭の「指揮者によって」は、詩編に55回とハバクク書の末尾だけに出る言葉で諸説あります。岩波訳の注では「詩を神殿で朗唱する際の指揮者を想定して、旋律や速度などを指揮者に任せるという意味だろう」とあります。「第八調」はメロディのことか、最低の音調を表す音楽用語だと思われます(岩波訳注)。

<日本バプテスト連盟教会・伝道所等を覚えての祈り> 日本バプテスト連盟 釧路キリスト教会。北海道釧路市若竹町6-16にあります。祈りの課題は以下です。①新伝道圏伝道が進展できるように。②「4つの礼拝」が継続できること。③滞日・在日の人に開かれた教会に。牧師:奥村敏夫